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三内丸山遺跡の次は、国道103号線を気持ちよく南下して、八甲田山へ向う。青森市内を抜けると、たちまち辺りの風景は一変する。現在のように道路が整備されていても、なおかつ山中は独特の精気が充満している。初夏だというのに、雨が降り続いて肌寒い。 第五連隊の雪中行軍隊遭難の地には、小さな記念館と、それを管理する食堂兼土産物屋が建っている。車を停めて、銅像のあるところまで歩こうとしたが、急に雨が強くなってきた。雪の中に半ば埋まりながら、仁王立ちになっていたある伍長の像である。像の下には、当時の陸軍大臣であった寺内正毅の撰文がある。 「一人積雪中に凝立し有るを見る。近づけば伍長後藤某なり。始めて、その隊の動静を詳にするを得たり」とある。要するに、彼の仁王立ちのおかげで、かろうじて救援活動ができたのだ。その後、神成文吉大尉以下、199人のなきがらが見つかる。生還者は、わずか十余名。 そこから少し離れた場所が、雪中行軍遭難の地であった。このほとんど無謀といえる、厳冬期の八甲田山での演習が行われたのには、日露戦争直前の緊迫した事情があった。内地より格段に寒さの厳しい、満州での軍事行動を見据えたものであった。 寺内の撰文では、「たまたま大風雪三昼夜に連なり、全隊路を失い飢凍して斃者相つぐ。」と異常気象が最大の原因であるかのような表現になっているが、新田次郎の『八甲田山死の彷徨』ではいささか事情が違う。 新田によれば、最大の原因は、指揮権の混乱である。その背後には、第五連隊と第三十一連隊という二つの連隊に雪中行軍を競わせようとする、師団の意図もあった。 当初、行軍は中隊規模で行われ、下士官から叩き上げの神成大尉が、指揮する予定であった。大尉は、現場の実情に合せた計画を作成していたのだが、そこへプライドの高く融通の利かない山口大隊長が同行することとなった。結果として、現場を知らぬ山口大隊長が誤った判断をし、隊全体がそれに引きづられていってしまう…。 新田の筆は冷静で客観的そのものだが、軍隊のあり方そのものへの批判が、行間ににじみ出ている。
by t.suigetsu
| 2010-04-04 21:43
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