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「反響」以後の作品は、現実の生活の一断面をさりげなく描写したものが多い。「露骨な生活の中で」などはまさにそうで、かつてイデアを求めた抽象詩人が、すっかり生活詩人になったような感さえ受ける。「哀歌」に心酔する人たちの間で、この頃の作品の評判が悪いのもうなずける気はする。しかし何気ない日常の風景の背後には、より大きな宇宙があるのであり、「哀歌」で追求されたテーマは昇華したのであって消失したのではない。 一日中燃えさかつた真夏の陽の余燼は まだかがやく赤さで 高く野の梢にひらめいている (小さい手帖から) そのことを示す重要な作品がこれである。冒頭の写実的な表現は、実は詩人の人生の表象であり、心象風景であろうか。確かに、数年後に迎える死を前にして、静雄の詩人としての魂は、一層の光芒を見せたのである。それは決して、「余燼」ではなく、むしろ求め続けたかがやきであったろう。 こんなとき野を眺めるひとは 音楽のやうに明らかな 静穏の美感に眼底をひたされつつ この情緒はなになのかと自身に問ふ わが肉体をつらぬいて激しく鳴響いた 光のこれは終曲か それともやうやく深まる生の智恵の予感か (同右) 林富士馬氏によれば、ギッシングの「ヘンリー・ライクロフトの手記」の大きな影響がある。すなわち「人生の真理は我々の力によって発見されるのではない。思ひかけない時に、天来の霊感が魂を訪れ」それが思想になるのだという。また「自分は今にして三昧境に浸る人の知的な気分を理解することが出来るのだ」とある。 詩もまた同じであろう。およそ詩を書くもので、このような霊感の存在を否定するものはいまい。ただキリスト教的価値に従えばすべては神の恩寵なのであり、アウグスチヌスによれば「人間に自由意志はなく、救いは神の恵みの働きによる」のであるが、静雄の邂逅した世界はもう少し東洋的であると言っていいだろう。 すなわち「夏花」「春の急ぎ」以来の調和と一体感がさらに深められ、人生と世界に対する透明感と静謐さをたたえた「諦観」に至った自然な帰結として、詩人は大自然の背後に存在する、すべてをあらしめるところの聖なるものの臨在を感じたのではないだろうか。 東洋的には、それをあえて神とは言わない。名前を付ける必要はない。それが何者であろうと関係ない。ただそこに尊さを感じることが出来たら、それがすなわち「神ながらの道」なのである。その意味で、情緒と表現した詩人の感性は適切であったろう。 ―そしてこの情緒が 智的なひびきをなして ああわが生涯のうたにつねに伴へばいい (同右) 生涯という言葉は、やはり重く取る必要があるだろう。人生をかけて追求してきた詩作の意味が、その結論が彼には見えたのではないだろうか。 神とは必ずしも自分の外側にあるとは限らない。自分自身の自我と格闘し内面を深く深く掘り下げていった時に湧出する泉は、実は外なる存在ともつながっているという。これは「悟り」の世界の話である。しかし臨死体験などで、地上の生きとし生けるものすべてが、根っこでつながっているというビジョンを見た人もいる。 この時もはや「放浪する半身」はなく、はただ静かで穏やかな世界、文字通りの「三昧境」にいたのではないだろうか。 伊藤静雄は昭和二十八年、四十七歳で永眠する。その四、五年前から、肺結核に犯され入院がちであった。もし彼にいま少しの命があれば、これらの作品は一冊にまとめられていたであろうし、新たな創作も可能であったろう。ぜひそれを見てみたかったと思う。かえすがえすも惜しまれる、早すぎる死であった。
by t.suigetsu
| 2004-12-07 21:39
| 伊東静雄論
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